ジム・ジャームッシュ映画「パターソン」を見て

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ジム・ジャームッシュ監督「パターソン」見てきました。とても胸にしみました。
これほどに魅了された作品は久しぶりです。
ジャームッシュは好きな監督です。何本も見ていますが、その中でも特別です。
どうしても感想を書きたくて書きました。この感想文はネタバレが含まれます。
ご承知のほどを。

この作品に登場してくる主人公はパターソンという名のバスの運転手です。
彼は同郷のある詩人を尊敬している。そして自らも折にふれ頭に浮かんだ言葉を書き留めている。
彼の妻はその詩を評価していて、詩集を出すことをすすめるのですが、当人は乗り気ではない。
自分の才能にもしかしたら自信がないのかもしれないし、美しい妻との生活に充足していて、
世間に評価されたい、自分はここにいるということを殊更叫ぶ必要を感じていないのかもしれない。
彼は実生活と創作なら実生活を優先しているように見えました。
思いついた言葉を昼休みにノートにこっそり書き付けているのですが、
毎度同僚が愚痴をこぼしに彼の元に来ると、ノートをしまってその話につきあいます。
イデアが降りてきている最中でもイヤな顔はしない。

しかし、発表のあてがなくても言葉は生まれてくるし、自分から生まれてくる言葉を残しておきたいという欲求
彼の中に確かに在る。

この映画に印象に残るエピソードがあります。
パターソンは街中で詩作をする少女と、コインランドリーでラップのライムを考えている黒人の男と遭遇します。
一瞬で彼は、この二人の中に自分のように日常の普通の生活の中で創作をしている、というか、せずにいられない、
いってみれば同じ種類の人間の匂いを嗅ぎ取ってしまいます。
そしてエールのような言葉を贈る、という小さなやりとりです。

また、彼の妻も閃きにしたがって行動するタイプで、思いついて変わった柄のケーキを焼いたり、
アラブ系で普段中東の音楽を好んで聴いているのに、突然ギターを買ってカントリーシンガーになりたい
なんて言い出す。

そうしたある日の留守中、愛犬に創作ノートをボロボロに引き裂かれて、彼はとても落胆してしまいます。
2、3日呆然としてしまい、子供のように可愛がっていた愛犬のことを少し嫌いになってしまうほどにです。

そこに偶然、永瀬正敏演じる男が、パターソンの前に現れる。
この男もパターソンと同じ詩人を尊敬していて、聖地巡礼と言った趣でわざわざ日本から来たのです。

永瀬はあなたも詩を書くのですかとパターソンに尋ねるのですが、パターソンは違うと答える。
自分はバスの運転手だと。
それにたいして永瀬は胸を張って自分は詩人であると言い切ります。
永瀬はおそらく、パターソンが詩を創作している、自分と同じ種類の人間であることを嗅ぎつけているの
ではないかと僕は思います。
先述の少女と黒人ラッパーのときのように。

そしてパターソンに白紙のノートをプレゼントします。
パターソンに何かを託すかのように。

そんなやりとりの後映画はおわります。

このシーンは、まるで何かの示し合わせのように、僕には感じられました。

そしてパターソンの中に、詩を書くという行為に対するある決意が芽生えたように感じました。
このシーンは僕には映画の中のフィクションではなくてもっと意味のあることに感じられたのです。
何故というに、僕も何か創作したい(している)タイプだっりするからなのでした。

(こういう言い方はなにか恥ずいな。何かを創作したいっていうのは才能があってもなくても
面白いことやりたいっていう欲望なんだけど。)

とにかくですね、この映画を見てとても爽やかな気持ちになりました。
なにか創作しているひとは見ると、チョットいい気分になります。
創作していなくてもイヤな気分にはなりません。小さな出来事が折り重なっている面白い映画です。
なので、おすすめです。