イギーポップの映画「ギミー・デンジャー」を見てロックの野生を思い出したのココロ

イギーポップのドキュメンタリー映画「ギミー・デンジャー」見てきました。

イギーポップはパンクのゴッドファーザーと言われているカリスマロッカーです。

ザ・ストゥージズ

という伝説のバンドのエピソード中心にジム・ジャームッシュ監督が聞き手になっています。

ザ・ストゥージズはあまり聴き込んでなくて、友達からCD借りて何度か聴いて

こりゃかっこいいとは思ったんですが余り縁がなかったのです。(ピストルズ経由で「NO FAN」は好きでした。)

イギーの曲がかかりまくりますが、ヒジョーにしびれました。とてもディープでワイルドで野蛮なのです。ロックンロールそのものというサウンドです。イギーさんはとてもエキセントリックな人でステージで自分の体を傷つけたりします。俳優としてもジャームッシュの「コーヒー&シガレッツ」とういう映画などに出演していますが、共演のトム・ウエイツのに気をつかうイメージと違ういい人の役です。多分素顔のイギーさんはナイスな奴のような気がします。といっても多面的なのでしょうが。

 

映画の中でイギーさんは自分の音楽をデュオニソス的と評します。これはニーチェ

芸術とは、アポロン的(理知的で善を志向する)という要素と、デュオニソス的(退廃的、陶酔的で麻薬的あるいは悪魔的)要素に大別されるという説を唱えていたところから来た発言でしょうね。

このアポロン的とデュオニソス的っていう表現ですが、昔、石坂啓一という大物レコード業界人東芝EMIの有名な洋楽ディレクター)ビートルズ、特にジョンレノンがアポロン的で、ストーンズがデュオニソス的と評していたのを思い出しました。

この見立ては慧眼だと思うのですネ。ビートルズはどんどん革新的なことをやって愛と平和を唱え、美しいハーモニーがあって明快なメッセージがある。陽のイメージ。

ストーンズはというと、ブルースですから入り込みにくいのですが、耳が慣れれば快楽的なサウンドで他の音楽を聴きたくなくなるぐらい中毒性がある。ミックジャガーが実際にケネス・アンガーとつるんで黒魔術に傾倒していたのは有名ですし、麻薬と縁が深いイメージをバンド自ら押し出している。性的なイメージも強烈に押し出している。

ビートルズはマンネリを嫌って精神面も含めて成長、進化して、やることがなくなったのに対して、ストーンズはシンプルでオーセンティックなロックサウンドを追求してジョージハリスンのように悟りを開こうとはしない。ストーンズは死ぬまで活動するんじゃないか。

ロックンロールは(ブルースは)、性的なエネルギーが原動力じゃないかと個人的に思っていますが、

ストーンズやイギーのシンプルで快楽的なリフやビートは、何百回と聴いてもまた聴きたくなるのではないでしょうかネ。食と性の欲求はずーっとくりかえし体に訪れるものだから。

頭で構築された音楽やアートは精神の高揚(形而上の価値)を表現するけれど、ブルースってもっと下世話なところから発生していてそれはとてもしぶといものだなあと思いました。

(なんかまだ書くことあるのですがまとまらないのでまたいつか続きかきます。)

 

 

 

ジム・ジャームッシュ映画「パターソン」を見て

編集

ジム・ジャームッシュ監督「パターソン」見てきました。とても胸にしみました。
これほどに魅了された作品は久しぶりです。
ジャームッシュは好きな監督です。何本も見ていますが、その中でも特別です。
どうしても感想を書きたくて書きました。この感想文はネタバレが含まれます。
ご承知のほどを。

この作品に登場してくる主人公はパターソンという名のバスの運転手です。
彼は同郷のある詩人を尊敬している。そして自らも折にふれ頭に浮かんだ言葉を書き留めている。
彼の妻はその詩を評価していて、詩集を出すことをすすめるのですが、当人は乗り気ではない。
自分の才能にもしかしたら自信がないのかもしれないし、美しい妻との生活に充足していて、
世間に評価されたい、自分はここにいるということを殊更叫ぶ必要を感じていないのかもしれない。
彼は実生活と創作なら実生活を優先しているように見えました。
思いついた言葉を昼休みにノートにこっそり書き付けているのですが、
毎度同僚が愚痴をこぼしに彼の元に来ると、ノートをしまってその話につきあいます。
イデアが降りてきている最中でもイヤな顔はしない。

しかし、発表のあてがなくても言葉は生まれてくるし、自分から生まれてくる言葉を残しておきたいという欲求
彼の中に確かに在る。

この映画に印象に残るエピソードがあります。
パターソンは街中で詩作をする少女と、コインランドリーでラップのライムを考えている黒人の男と遭遇します。
一瞬で彼は、この二人の中に自分のように日常の普通の生活の中で創作をしている、というか、せずにいられない、
いってみれば同じ種類の人間の匂いを嗅ぎ取ってしまいます。
そしてエールのような言葉を贈る、という小さなやりとりです。

また、彼の妻も閃きにしたがって行動するタイプで、思いついて変わった柄のケーキを焼いたり、
アラブ系で普段中東の音楽を好んで聴いているのに、突然ギターを買ってカントリーシンガーになりたい
なんて言い出す。

そうしたある日の留守中、愛犬に創作ノートをボロボロに引き裂かれて、彼はとても落胆してしまいます。
2、3日呆然としてしまい、子供のように可愛がっていた愛犬のことを少し嫌いになってしまうほどにです。

そこに偶然、永瀬正敏演じる男が、パターソンの前に現れる。
この男もパターソンと同じ詩人を尊敬していて、聖地巡礼と言った趣でわざわざ日本から来たのです。

永瀬はあなたも詩を書くのですかとパターソンに尋ねるのですが、パターソンは違うと答える。
自分はバスの運転手だと。
それにたいして永瀬は胸を張って自分は詩人であると言い切ります。
永瀬はおそらく、パターソンが詩を創作している、自分と同じ種類の人間であることを嗅ぎつけているの
ではないかと僕は思います。
先述の少女と黒人ラッパーのときのように。

そしてパターソンに白紙のノートをプレゼントします。
パターソンに何かを託すかのように。

そんなやりとりの後映画はおわります。

このシーンは、まるで何かの示し合わせのように、僕には感じられました。

そしてパターソンの中に、詩を書くという行為に対するある決意が芽生えたように感じました。
このシーンは僕には映画の中のフィクションではなくてもっと意味のあることに感じられたのです。
何故というに、僕も何か創作したい(している)タイプだっりするからなのでした。

(こういう言い方はなにか恥ずいな。何かを創作したいっていうのは才能があってもなくても
面白いことやりたいっていう欲望なんだけど。)

とにかくですね、この映画を見てとても爽やかな気持ちになりました。
なにか創作しているひとは見ると、チョットいい気分になります。
創作していなくてもイヤな気分にはなりません。小さな出来事が折り重なっている面白い映画です。
なので、おすすめです。

オノ・ヨーコさんのドキュメンタリーを見て

オノ・ヨーコさんのTVの大変面白いドキュメンタリーが放送されましたが、2〜30年前、TBSでヨーコさんのインタビューの番組が放送されました。記憶が曖昧ですが、確か劇作家の如月小春がインタヴューワーだった気がします(検索しても出てこない)。その時僕は、ヨーコさんが随分たくさん日本語をしゃべるのに、とても新鮮な驚きがありました。いつも英語でしゃべる映像しか見ていなかったからなのですネ。
戦前のヨーコさんの御宅でテニスをしたりやピアノを弾く様子が、なんと16mmフィルムに収められているのが写ったり、当時ご存命だったヨーコさんのお母様(白髪で着物を着られた上品な女性)の映像が流れたと記憶しています。

そこで、ジョンとの出会いについて語っていたのですが、ロンドンで個展を開いた時に、
個展開催前日にオーナーの特別な計らいでジョン・レノンが来たと。
そして、林檎の展示があったのを、なんとジョンは齧ってしまった。
まだオープン前なのに大事な展示を
齧られたヨーコさんは咎めたら、ジョンは素直にあやまったとか。

そこでヨーコさんはジョンを大変ストレートな人と評しています。普通ギャラリーに来る様な人は取り澄まして
、「フーム」なんて態度で鑑賞するのに、ジョンは大変ストレートで素直だったと。
だって作品齧っちゃうんだから。
ここがまさにビートルズのジョンなんだと、僕も思います。ビートルズの歌詞は中学の教科書にのるほどに、シンプルでストレート。ビートルズ愛する人は皆そこに魅力を感じるでしょう。

対してジョンのほうは、所謂、前衛芸術はなにかにたいしてアンチ、否定的なアプローチが多かったのに、ヨーコのある作品はシンプルな「YES」のメッセージがあってとても温かい気持ちになり、感動したと。
そのあと色々あって世紀のカップルが誕生するわけですが、ヨーコさんとジョンの出会いというのは、
東洋と西洋の出会いであり、アヴァンギャルドポップカルチャーの出会いでもあるわけです。
だからこそ、この2人の作品は強烈な(人によっては拒否反応がすごい)
メッセージ性を帯びるし、そのイメージは何かの枠から常に自由で手垢にまみれないのだろうと思います。
僕がヨーコとジョンの作品を理解できるようになったのは、小5でビートルズファンになった40年ぐらいまえからすると随分時間が経ってからだと思いますし、
残念ながらビートルズのファン(ポップ文化の、と言い換えてもいい)には、
この2人の活動は理解を超えているところがあると思います。
でもヨーコさんが正しく評価される時代になったんだなとここ数年思います。
僕はビートルズYMOというバンドが特別にすきなのですが、この2つのバンドはポップであり前衛でもある。
そこにとても強く魅力を感じますネ。

それは自分にとって特別な映画作家ゴダールにもいえるのですが、このことはまた書きたいと思います。

 

 

 

先日、何年振りかでフランソワ・トリュフォーの「ピアニストを撃て」(1960)を見ました。

ちょっと思いつきでブログ初めてみました。音楽や映画の感想、その他諸々書いてみようと思います。
よろしくお願いします。

先日、何年振りかでフランソワ・トリュフォーの「ピアニストを撃て」(1960)を見ました。レンタルDVDのパッケージには軽妙な作品と書いてありますが、実際はどこかジトっと暗い。でもそこが好きだったりします。作中、主人公シャルル・アズナヴールとマリー・デュボワが車で拉致されるシーンで、彼らを拉致するギャングたちと車中で和気藹々、ストーリーと関係ない会話に花が咲くところが面白いですね。この辺が自分が感じるトリュフォー節という感じ。
ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」を思い出しました。あの映画でも、登場人物達が車に乗ってうだうだしているシーンがあったはず(随分、何十年と見てないけど)。ヌーヴェルヴァーグの作品的な特徴としては、物語が真っ直ぐ進まず、ウネウネ脱線するというイメージがあるんだけど、まさに車中のシーンがそうだと思います。
この頃のトリュフォーは語りがぎこちなくて、なんかギクシャクしたテンポ感に感じます。それがでも、独特の味わいに感じるんです。なんかひっかかる感じ。初めて見たのは、レンタルビデオ黎明期に、確かソニーからビデオが出ていてそれで見ました。
(当時ソニーからブニュエルフェリーニベルイマンパゾリーニ等々ヨーロッパの巨匠監督の作品ビデオがお店に置いてあって、随分それを見ましたね。制作された時代でいうと60年代ぐらいのもの。カラー作品の色彩がちょっと褪せている質感。20歳ぐらいで芸術的な映画に興味津々な頃でした。
当時《90年頃》見ても古い映画だなあと思ったんですけど、その古さは好きな感じでした。)
まあ初めて見た時は退屈だなあと思ってたんですけどね。でも返却するまでに何度か見て、だんだん好きになりました。やっぱり、とても個人的な感情が込められている、所謂作家性を感じますね。なんだか真面目だっり、エキセントリックだったり、文学趣味があったり、フランス人てこんな少し面倒くさいかんじなのか、なんて。
映画は子供の頃からTV や劇場で主にアメリカ映画を見ていましたが、この時代のトリュフォー作品などのヨーロッパ映画を見てから、映画の見方が変わった様な気がします。

いや、はっきり変わりました。